『太平洋戦争の戦況が日本にとってますます悪くなった一九四四(昭和一九)年十二月七日東南海地震(M7・9)、約一カ月後の一九四五年一月十三日に三河地震(M7・1)が起こりました。地震研究所からも調査に行きましたが、私は海軍から四、五日間休暇をもらって、地震発生後しばらくしてから現地を見てまわりました』
当時の東大地震研究所の調査の様子を、後に同研究所長に就いた萩原尊礼氏=一九九九年没=が「理科年表読本 地震予知と災害」(丸善刊)に記している。
戦時下の調査は難しかったようで、『カメラは風呂敷に包んで持ち運びました。もちろん軍部からきちんとした許可はもらってありましたが、地方の憲兵隊員に見つかって、つまらぬ時間をつぶしたくなかったのです』と書いている。萩原氏は名古屋方面を訪れたようで、徴用学生が犠牲になった軍需工場の倒壊現場などを回っている。
文中の一節からは、東南海地震に関する地震研の報告が少なかった理由も知ることができる。
『当時は地震の被害は軍の機密事項でした。地震研究所では金井清さんがこの二つの地震を大変詳しく調べられました。ところが金井さんが広島の原爆調査に行っていた留守に、八月十五日を迎えたのです。日本国内では連合軍の進駐に備え、婦女子を疎開させ、機密事項は焼却処分にしました。地震研究所でも、高橋竜太郎さんが女子職員に青酸カリを配りました。そしてこの時、金井さんの調査記録は命令に忠実に従っていた女子職員の手により、すべて焼却されてしまったのです』
記録の一部は処分されてしまっていたのだ。当時助教授だった萩原氏自身も、軍の要請で、横須賀海軍工廠(しょう)に赴き、磁気爆雷の研究に当たらされていた。
そんな中、戦後十年ほどして、小笠郡菊川町の教師の論文が東大地震研彙報に掲載され、注目された。昭和三十一年(一九五六年)に受理された大庭正八さん(83)=当時・菊川北中=の「1944年12月7日東南海地震に見られた遠江地方の家屋被害分布と地盤との関係」だ。家屋被害を市町村単位よりさらに細かく集落ごとに調べた内容で、大庭さんが「徒歩や自転車に乗って調べ回った」戦時中の労作。「スパイではないかと言われ、怖くなって、戦後になってやっと報告できた」という論文だった。
(2003.2.3掲載)