『被害家屋の分布状況は低地のすみずみまで広がり、特に磐田原台地に接した側では、大ていその裾ぎわまで倒されている。この方面の磐田郡向笠村、田原村、御廚(みくりや)村等の内で、里と呼ばれる低地側と原と呼ばれる台地上にまたがる集落の部分を比較すると、被害のコントラストが顕著である』
昭和三十二年の東大地震研究所彙報35号に掲載された大庭正八さん(83)=当時、菊川北中教諭、現在菊川町在住=の論文からは、地形や地盤による地域ごとの被害の差がよく分かる。
大庭さんは、昭和十九年十二月の東南海地震発生直後から、県西部の被害地域を詳細に踏査して、市町村単位よりさらに細かに集落ごとに被害程度をまとめたのだ。それが結果的には、太田川や菊川沿いに広がる軟弱地盤が被害を増大させた様子を浮かび上がらせ、学術的に注目を浴びることになった。
「地震で近所の家もバタバタ倒れ、翌日から調べに出てみると、平地の家はほとんど倒れているのに、山側の家は無傷のものもあって、こりゃどうしたことだ、と思ったのがきっかけでした」と大庭さんは調査を始めた動機を語る。
師範学校で自然地理を専攻したこともあって、「大地震の被害を記録しておかなければ―」と夢中で調べ回ったという。
▽宇刈村(現袋井市)春岡=公会堂、倉庫、共同作業所等一部破損、人死2人、牛死1匹、極楽寺山門倒潰▽飯田村(現森町)市場=山名神社鳥居笠つい落、玉垣2間倒潰、忠魂碑倒潰…
論文の半分を占める集落ごとの被害調べは詳細で、地盤の種別と全壊、半壊戸数が漏れなく記載されている。
また、観察も細かく、『磐田郡東浅羽(現浅羽町)の砂地では20年経過以上の家が倒れ、その倒家の大部分は60年以上のものである』といった具合に、家屋の種別や構造による被害の差も記している。▽埋め立ての土盛りが不十分▽基礎工事が不完全▽柱数や壁の面数が少ない家…と被害家屋の構造的な不備も分類している。
当時、大庭さんはこれらの調査記録を野帳(フィールドノート)に記していた。たまたま戦後、菊川町を調査に訪れた東京教育大の大学院生だった氏家宏氏(後の琉球大教授)がそれを見つけ、東大地震研の河角広教授の指導と紹介で地震研彙報に掲載され、現在に残る貴重な資料となった。
(2003.2.11掲載)