『家の子が風邪で幼稚園を休んでいましたので、心配になって急いで戻り、呼んでも出てこないので、奥の部屋へ抱きに入りました。もうその時は振り子のように揺れどうしようもなく、子供を下にして伏せました。その上から壁や棚のものが、どっと落ちてきて、息がつまりそうでした』(聞き書き 袋井市新町、鈴木たき)
昭和十九年(一九四四年)の東南海地震=マグニチュード(M)7・9=は、大きな揺れも特徴的だった。県中遠振興センター(現・中遠県行政センター)発刊の「東南海地震の記録」に収録された袋井市の「鈴木たき」さんの証言からは、家が『振り子のように』揺れたことが分かる。
長い初期微動(P波)の後に訪れた主要動(S波)は、浜松測候所や御前崎測候所の地震計の針を振り切るような激しさだった。震源から遠かったため、初期微動は御前崎測候所で一七・一秒、浜松測候所で一二・九秒も続き、その後、主要動になって十数秒、つまり揺れ始めから三十秒程で、“大揺れ”が県西部を襲ったのだ。
推定震度は6。「鈴木たき」さんの証言には『「田んぼが波をうつようになってきた」と言っていた』との表現がある。
『両親と3人ですぐ西うらの田んぼで、稲のはず掛をやっていました。突然、ゆさゆさ、ぐらぐらと地が割れるかと思う程のひどい揺れで、とても立ってはいれず、道の土手にしがみついていました』というのは旧田原村(現袋井市)彦島の「村田さの」さんの証言で、実際、地割れも各所で発生している。
『突然ドーンという音といっしょに、山は大きく揺れだしました。「先生、空襲だよ。爆弾が落ちたんだよー」と子ども達は泣きながら墓標の間を四つんばいになって、ころげながら私のほうへやってきます。私も立っていられません。ころげながら「防空頭巾をかぶりなさーい」と叫びましたが、地面は大きく揺れてかぶることはできません。子ども達を抱き寄せながら大きく波打つ地面にしがみついていました』
この証言は旧幸浦村(磐田郡浅羽町)国民学校教員「土屋幸子」さんが二年生を近くの寺へ引率した際の体験談で、転倒した墓石に足を挟まれて泣き叫ぶ子供を“火事場のばか力”で助け出した様子も語られている。墓石や石積み塀は、この横揺れに簡単に崩れ、倒れたようだ。
地盤の軟弱な袋井市や浅羽町などでは、この大きな揺れが一分から二分も続いたとされている。
(2003.2.24掲載)