『中島飛行機工場ノ被害又大ニシテ工場ノ約八割破壊セラレ居リ目下中部第七九部隊兵員約三〇〇名出動取方附中ナリ又日本楽器天竜工場(航空部品製作)ノ被害モ甚大ニシテ前記第七九部隊兵員約一〇〇名出動応急復旧中ナリ』
昭和十九年(一九四四年)当時の浜松警察署がまとめた「震災被害状況書類」には、浜松地域の軍需工場の被災状況が詳しく載っている。『第七九部隊兵員約三〇〇名』などとあるように、被害程度とともに兵員の出動状況など復旧の進展具合まで随時拾っている。
これは当時の政府が軍需工場を重視したためでもあるが、実際、浜松地域では一般家屋より工場の被害の方が目立ったようだ。
『(浜松市)宮竹の田圃を埋めてバラック建ての工場が一カ月位の間に建てられた。のこぎり屋根の工場が突如出現したのにもびっくりしたが、十二月七日の地震のときは将棋倒しのようにバタバタと倒れ工場が突如消えてしまったのには二度びっくりした。地盤の悪い田圃に資材の不足から柱の少ない建物を建てたので、ひとたまりもなかったようだ』
中島飛行機工場の倒壊を目撃した鵜飼亀吉氏という人物の証言(中遠県行政センター刊「写真で見る東南海地震」より)からは、工場の耐震性に問題があった側面も浮かび上がる。
報告に何度も出てくる中島飛行機製作所は、当時の大手飛行機メーカーで、東南海地震の発生する昭和十九年の秋に、発動機専用工場を浜松市の宮竹に建設したばかりだった。そして、操業開始の直前に地震に遭って、木造工場は一瞬にして全壊したのだ。
「写真で見る東南海地震」の編集委員(顧問・野嶋宏二氏)だった高校教師らの調べでは、浜松地域にあった軍需工場は民生からの転用が多く、生産力増強中で、『多くが軍需工場に転換した時に、稼働面積を増やすため柱や壁を抜き取ったり、補強用鋼材を軍の要請により供出したために、建物が弱体化して起こった被害でした』と分析している。
当時、飛行機のプロペラを製造していた日本楽器本社工場(現ヤマハ、浜松市中沢町)もれんが造りの鋳鉄工場が崩壊し、犠牲者を出している。約千人が働いていた遠州機械(現エンシュウ、同市高塚町)の機械組立工場も地震発生とともに倒壊し、犠牲者が出ている。
(2003.3.31掲載)