『師走の月でありながら気温は上昇、汗ばむほどの昼時、(中略)全くの無風状態で、どーんとしたなま暖かい空気が周辺を漂い、何となく異常な雰囲気でした』
東南海地震=マグニチュード(M)7・9=が発生した昭和十九年(一九四四年)十二月七日。鉄道省の「浜松工機部」(現JR浜松工場)に女学校から学徒動員に来ていた川合照子さん(73)=現静岡市在住=が、貴重な被災体験を本紙あての手紙に記している。
『突然、海の方角か地面の底からか分からないゴーと言う地鳴りが響いてきた。その唸りは重圧感があり、ただ事ではないと思う矢先、地面が猛烈に揺れ始めた。と同時に芝生に立っていた全員が倒れ地面に腹這いとなり、凄まじい横揺れ、皆ゴロゴロと地震の揺れに逆らうことできず、握った芝生も手から放れてしまう』
浜松市東伊場の工場敷地内の様子だ。川合さんによると、職員や女子生徒らは「お盆の上の大豆のようにゴロゴロ転がった」というから、横揺れの激しさが分かる。
さらに『鉄の塊、かなり大きな物体が軽々と舞い上がり落ちては又舞い上がる』と手紙にある。揺れは激烈で「資材用の鉄板が紙切れのように舞った」と川合さん。「敷地内にあった機関車が無人なのに動き出し、横転して、恐怖は頂点に達した」と言う。
工場は当時、車両の修理などと軍需品の製造も行っていた重要施設で、二千人以上が働いていた。鉄骨造りが多く全壊は免れたが、半壊状態で大打撃を受けた。 また、川合さんは自然の脅威を目の前にした。
『私の横で異様な音と共にアスファルトの道路がパクッと割れ、幅一米弱の亀裂が生じた。(中略)地面は未だ大揺れ、その時亀裂した道路が又、異様な音と共に閉じた。開いたり閉じたりする様は人の力ではない。(中略)「助けてくれ」男子職員の叫びがする。見れば、その亀裂の中に半身が落ち込みそうになっていた』
地割れが人を飲み込みそうになったのだ。この職員は助け上げられたが、次には亀裂から『水が噴水のように噴き上げた』とある。そして、『やっと静かになった』という。
残念ながら川合さんは、この地震で、日本楽器に勤めていた父親を亡くし、忘れられない、この地震と当時の戦争の体験を「遠い日記」と題して自費出版している。
(2003.4.7掲載)