昭和十九年(一九四四年)の東南海地震=マグニチュード(M)7・9=による被害は、浜松地域でも低地帯や埋め立て地で目立った。砂礫(れき)層から成る三方原台地の被害が少ないのに比べ、浜名湖の入江の延長線上にある旧篠原村(浜松市篠原)の一部や入野村(同入野)、馬込川や芳川といった中小河川沿いの芳川村(同芳川)や五島村(同五島地区)では全壊家屋が多かった。
『ほんとうに、家が座ってしまったように、私の目に屋根瓦の鈍い色がいっぱいになった。(中略)倒れた家の中から、近所の人たちがいろいろ運び出していた。時折、体がグラッとゆれる。「余震がくるで、あんまりやあーっと中にいるなようっ」と隣のおじさんが壊れた家の中へ大きな声を出していた』
「浜松わたしの昭和時代」(樹海社刊)に収録された旧篠原村の清水とき枝さんの証言だ。
清水さんは通っていた小学校の講堂で被災し、『自分の青い鼻緒の下駄を探し、それを抱えてギイッギイッと揺れる廊下から這(は)って出た』体験もしている。『大廊下がつぶれた、誰れか下敷きになった、という声が聞こえた』というから、被害は相当だ。ただ、『学校でも足を折ったのは一人だけだった』という。
『祖母一人が家に居たけれど、幸い軒端にいたので這って前の夏みかんの木の下へ入るとすぐ、ドッドーッと、地響きがして家が倒れた。「そん時は、唯念仏を唱えてみかんの木いしがみついていたよ」と云った』とある。その後、バラックができ、被災者には缶詰の配給もあった、と記されている。
同じ「浜松わたしの昭和時代」で被害を分析したレポート(関七郎氏)によると、旧の浜松市では、池川町や伊場、東海道線南側の寺島町や竜禅寺町、砂山町で家屋被害が多かった。いずれも小さな河川沿いで、地盤の弱さに起因したものだ。
東部では中ノ町村(現浜松市中野町)が全壊家屋九十戸以上で被害が目立つ。同じ証言の一つに『私の兄嫁が警防団の回覧を持って歩いていたところ、突然自分の足もとが地割れをし、水が噴き出て大水のような状態になったそうです』(中野町、瑞岳みよさん)とあり、一帯の地盤の弱さが推測できる。
(2003.4.15掲載)