昭和十九年当時の浜松市内の被害は、東大地震研究所の宮村攝三氏の調査では死者二十一人、負傷者百六十七人。浜松市立中央図書館所蔵の「震災被害状況書類」の浜松警察署まとめでは、周辺町村を含めた浜松地域の被害は死者四十五人、重軽傷者二百三十二人。この犠牲者の中には痛ましい子供の例もあった。
『五時間目の授業が始まって間もなく、隣の席の人がね、机をガタガタ揺すってると思ったら、だんだん揺れがひどくなってね。みんなで、ワーッと教室を飛び出した。二階から降りるとき、階段がぐらぐら揺れて立って歩けないもんで、はいずり回ってやっと降り、はだしで運動場へ無我夢中で走ったの。体がガタガタ震えたっけ。私が通った直後、渡り廊下の屋根が崩れ落ちて四人が下敷きになったの。先生方がすぐかけつけたけど、小学二年の女の子一人と同級生の二人は、もう動かなかった。一人はイチョウの大木の根元と崩れた棟木とのすき間に体が入って、運よく助かったの』
東南海地震当日の飯田小の様子が、一年生だった鈴木甲恵さん=同市渡瀬町=の証言として「わがまち文化誌 天竜川と東海道」(天竜公民館刊)に掲載されている。これには六年生担任だった中谷浜江さんの証言も収録されている。
『習字の時間に地震がきて、ガタガタ、ガタガタと額や硯が床に落ちました。ゆさゆさ揺れるので、子供たちを机の下に入れたんですが、「先生コワイ」と口々に震えてさけんでいましてね。他の生徒は、皆、運動場へ出ていました。地震がやんだころ、六年生の男子が走ってきて「オーイ、六年の女子は皆死んでるぞ」とさけんだので、机の下から出ていったんです。しかし、(一、二年生の)三人の女の子が運動場へ出る途中、廊下の棟木が頭に当たって死んでしまったんです。耳のうしろに血がついていました。本当にかわいそうでした』
現在の飯田小には「震災没者供養塔」の地蔵が立っている。「私たちは昭和十九年十二月七日の東南海地震を忘れません。『おおい…おおーい。渡り廊下のところに女の子が倒れてるぞ』。五時間目が始まってまもなくのことでした。三人は崩れ落ちる棟木の下敷きになったのです。天災はいつくるのかわかりません。私たちは悲しい事実を忘れません」と記され、三人の犠牲者の名が刻まれている。
(2003.4.21掲載)