『雄踏村(現雄踏町)では濱名湖及び雄踏の入江に近いだけに幾分被害家屋が多い。村役場に依ると全潰=住家17・非住家17、半潰=住家52・非住家43で、東西向きに傾斜倒潰したものが多い』 『舞阪町及び舞阪駅附近では一般家屋の被害は殆ど見られないが工場建築に於いては全壊したものがある。唯西端辨天橋際の岸壁上では破損した家がある』
『新居町及びその附近、東海道今切の長橋の西岸の突堤では道路が甚だしく亀裂した。新居町では南方の濱名地域では殆ど被害がないが町の中央街なる南北の道路に沿ふて被害が最も集中している』
昭和十九年(一九四四年)の東南海地震=マグニチュード(M)7・9=で被害を受けた現在の浜名郡三町の様子だ。記述は、中央気象台(現気象庁)の「東南海大地震調査概報」に収録された内容。新居町で家屋倒壊が目立ち、けが人も四人出ているが、他地域と比較すると、被害は大きいと言えるほどではなかったようだ。
それでも、町民には地震の衝撃の記憶が刻まれている。
『あの時の恐怖は今でもはっきり覚えています。昭和19年12月7日でした。栄町の授産所で、軍人家族の荷づくりをしている最中、グラグラッと来たので、すぐ地震だとわかりました。みんな大あわてで荷づくりの山を乗り越えて外にはい出しました。とにかく、立って歩くことができないくらいひどく揺れるので、はったり、物につかまって進みました。外に出ると水そうの水が1メートルも高く波打っているのが目に入りました』
新居町発刊の「わがまち あらい」(一九七五年)に掲載されている朝倉さとさんの証言だ。
この後には『そのうち地面が盛り上がったと思ったら、パチパチと地割れが起こったので、夢中でよけました。その地割れから水がふき出し、私はこわくて声も出ませんでした』とある。いわゆる液状化現象が新居町でも見られたのだ。
過去の巨大地震で度々襲来した津波には当時も相当警戒したようだが、浜名湖の今切口付近には約〇・六~一・〇メートル程度の津波があっただけとの記録がある。中央気象台の「東南海大地震調査概報」にも『警察では津波の来襲を警戒したが、結局来なかったと云う事である。(中略)辨天島水産試験所談の如く1米未満の潮の押引きはあったかも知れない』と記されている。
(2003.4.29掲載)