『鷲津町の家屋被害は、この附近で最も多いが、その大部分が東海道線鷲津駅を中心とした濱名湖沿岸の低地にある所謂(いわゆる)鷲津町に集中して居て…』
昭和十九年(一九四四年)の東南海地震の実態をまとめた、中央気象台(現気象庁)の「東南海大地震調査概報」(昭和二十年刊)には、現在の湖西市の被害が鷲津町を中心に記されている。
収録された新居警察署管内の被害まとめでは、旧鷲津町は住宅の全壊が八十七戸、半壊が八十戸、死者は十三人、重傷者は十二人に上っている。当時の記録はほとんどないが、住民の証言などから鷲津駅周辺の工場が多数倒壊して死者が出たようだ。昭和の初めに湖面を埋め立てた地域も多く、湖岸部の軟弱地盤では揺れが激しかったのだ。
記載で、次に被害が多いのは、知波田村(現湖西市の北部)の隣の浜名湖に面した旧入出村で、住宅の全壊は五十三戸、半壊六十戸、軽傷一人。太平洋側の旧白須賀町は住宅の全壊十八戸、半壊十九戸。旧新所村は住宅の全壊六戸、半壊十二戸ながら、死者一人の犠牲者が出ている。
『鷲津駅に近い方面では涸井に噴水したものや、田に砂水を噴出したものが各所にあり、井戸は大體濁った』との記述から、浜名湖に近い場所では液状化も激しかった様子が分かる。
『鷲津駅附近の被害に比し、他の部落の被害が格段に違ふのは前者が湖水に極めて接近して居るのに對して後者が多く山上又は山際の臺(台)地にある為であるが、尚ほ恐らくは鷲津駅附近の低地は地震に際し表土が可成り急激な沈下を起こしたのではないかと思はれる』と被害と地盤の関係を比較している。
表土の沈下という点では、旧新所村と旧知波田村の東海道線の被害もひどかった。『鷲津駅より西方約1500米の地点から約2粁(千メートル)の間東海道線の土手(高さ4・5米乃至20米)に大沈下を起こし約二週間国鉄を不通にした』とある。
現場状況については『数ヶ所が陥没し、北側へ土砂が流れ出した。その為レールは處々垂れ下がると共に北方へ大いに引きずられて蛇のうねる如き形状になった。流れた土地が最も遠くへ及んだのはレールから水平に測って100米位で他は40~50米程度である』と表現している。
(2003.5.5掲載)