『上下線とも全ピーヤ(橋脚)が川床面付近で折損して横ずれした。特に7号8号(東京方より)のピーヤは、約1メートル川上の方へ横ずれした。このため、各ピーヤ上で各トラス(鉄橋)の方向が変わり、レールはくの字型に右や左に曲がり、とても列車を通せる状態ではなかった』
県中遠振興センター(現中遠県行政センター)の「昭和19年東南海地震の記録」(昭和五十七年刊)に掲載された元国鉄職員、山田栄作さん(袋井市)の証言は、天竜川鉄橋の被害に詳しい。戦時中の同鉄橋は東海道線の要衝。山田さんは、まさにその現場で復旧に当たっていた。
『この復旧には、近くの民家を借りて復旧本部とし、私は、この本部詰めとなり、浜松保線区の栗田半三郎氏と2人でこの復旧の任に当たった』とある。作業は大変で『勿論帰宅もできず、元日も勤務する毎日であった』と記されている。
東海道線は磐田以西で目立った被害がなかったが、天竜川の橋梁(きょうりょう)だけは別だった。コンクリートと石の橋脚は、当時としては強固で、崩壊するようなことはなかったものの、南からの地震の衝撃波で鉄橋が部分的に北側(川上)にずれたのだ。
『天龍川鐵橋の被害を見るに関東大震災當時に於けるが如き橋脚の沈下又は扛上等に見る地変的被害は認められず、被害は巨大なる自己慣性により北方への衝撃に破壊面を生じ、面に沿いて上部が北方に数十糎移動したるを主なる破壊とし(以下略)』
中央気象台(現気象庁)の「東南海大地震調査概報」(昭和20年刊)に収録されている気象技監の藤原咲平氏の「地震調査私見」には、地震の衝撃を受けた鉄橋の様子が物理的な分析を加えて表現されている。
復旧は突貫工事で、『3日後の12月10日午後に一応仮復旧したが、線路が右に左に曲がっているため、鉄橋入口で列車を一旦停車させ、時速5キロ運転で橋梁内を通過させたが、脱線せぬかと非常に心配した』と山田さんの証言にはある。『空襲下、爆撃や機銃掃射を受けながらの復旧作業であったが、1人の傷害者も出さず、速度も時速50キロ運転にまでして、20年2月末で復旧本部を解散して、私は管理部に引き上げた』。約三カ月後の復旧だった。
(2003.5.26掲載)