昭和十九年(一九四四年)の東南海地震の被害の中でも、学校の被害は悲惨だった。中遠地域では、約三十の学校で校舎倒壊などの被害があり、六十人以上の子供たちが犠牲になっている。
『私は、二階6教室の中央で六年女子38人の授業中であった。突然、西北方から怒とうのうねりに似た異様なとどろきを耳にすると間もなく、大きな魔力によるかと思われる揺さ振り2~3回のうちに壁は落ち、ガラスは飛散し、教室の間仕切は、つぎつぎと倒れて、3教室ぶっ通しとなった。この時、早くも南側の平屋2棟校舎は全壊し、児童は下敷きとなっていた』
県中遠振興センター(現中遠県行政センター)発刊の「東南海地震の記録」にある元教師、村松仁平さん(磐田郡浅羽町)の証言から、袋井町西国民学校の様子が分かる。現在の袋井西小で、原野谷川沿いの地盤が悪い立地だったせいか、付近では最も被害が大きかった。
『下敷きになった児童の救出作業にあたったが、道具もなく、素手でかわらをめくり、土をはね、杉皮板天井を夢中で破り、ようやく穴があくと、机の下あたりにもぐっていた児童が次々とはい出してきた。しかし、中には太い材におさえられてうめいている児童もおり、やっと手に入れたのこぎりで、この太材を切り、助け出した。その時間は本当に長く思った』
村松さんら教師と駆け付けた父母らの必死の救出にもかかわらず、袋井町の震災誌には死者二十人、負傷者は三十人となっている。
ほかにも、弱い地盤の上に立つ、耐震性の劣る木造校舎は、ひとたまりもなかった。太田川沿いの今井国民学校(現袋井市立今井小)の倒壊した様子は、当時、五年生だった山下晃さん(69)=浜松市有玉北=が後に絵に描いて、残している。
『「ゴーッ、ドーッ」今までに聞いたこともないような音と共に足元がふらつき、宿直室の障子を何本かどうやって開けて出たのか。玄関の前で倒れた。(中略)空は真っ青だった。職員室は、見事に形をなくし、屋根瓦が整然と敷きつめ目の前にあった』と元教師、蛯原喜代子さん(袋井市田町)が回想=「東南海地震の記録」=している光景そのままだ。
幸い、児童は授業が午前中だけで、全員無事。心配した父親から「学校を見てこい」と言われて駆け付けた山下さんは、その光景が「頭に焼き付いて残った」と言う。
(2003.6.2掲載)