『大地震 記 鈴木 十二月七日 木 晴』『午後一時四十分頃、突序、強震アリ。丁度全園児各部屋ニアリ。気付イテ出ル間モナク全家屋倒壊セリ。自分ガ五六名ノ幼児ヲ連レ出シタ外、三名ノ保母、他全幼児下敷トナル。オ向ヒニ見エタ母親、急ヲ知ッテ駆ケツケタ警防団員、続イテ軍隊ノ必至ノ作業ニヨリ次々ト救出サルガ、次ノ尊イ犠牲ヲ見ル』
昭和十九年(一九四四年)の東南海地震時、袋井保育所の保母をしていた鈴木やゑ子さん(袋井市川井)の手帳に残るメモの原文だ。後半には保母一人と三歳から六歳の園児二十一人の犠牲者の名前が記され、“悲しみの記録”となっている。
『事務室へ紙芝居を取りに行き、戸棚から出そうとしているとガタガタとガラス戸のなる音が聞こえた。「ア!爆風かな、先ず外へ出なければ、それから皆に知らせよう」と裏側の運動場へ向かった。廊下を出外れる頃、急に園舎がゆれだした。「地震!早く出て」と大声で叫び夢中でとび出したとたん、園舎の大きな屋根がそのままふさってしまった。私とつづいて出た幼児7、8人はふらふらして立っていられず地面へへばり付いてしまった。思いもかけぬ出来事に、ただ茫然―、この大きな屋根の下に80名の子供達と先生達が入っているのだからと、両手で屋根を持ち上げたい気持ちでいっぱいであった』
中遠県行政センター発刊の「写真でみる東南海地震」に鈴木さんの体験談もあり、園舎が崩れ落ちた様子が分かる。
『床と一緒に体が宙に舞い上がった。あっという間に屋根が落ち、下敷きになってしまった。床の畳と屋根に全身をはさまれ息苦しくなり、気を失ってしまった』と保母の一人、鈴木伊都子さん(磐田市西島)の証言(県中遠振興センター刊「東南海地震の記録」)からも瞬時の出来事だったことが推測できる。
場所は旧国道1号沿いの中心街。百人収容の大きな施設だったが、原野谷川まで約百メートルと市の中でも弱い地盤で、激しい揺れに園舎はひとたまりもなかったようだ。
『顔まで壁土にまみれて何ちゃんともわからず親も見過ごしてしまう子、何の傷もなく窒息した乳児、はりの下敷きになって圧死した子、傷つき血だらけの子供、私は半狂乱になって救出されてくる子供を受けとっては保護者に渡した』と鈴木やゑ子さんの体験談は続いている。
(2003.6.10掲載)