昭和十九年(一九四四年)の東南海地震による学校関係の被害で、ほかに犠牲者が多かったのは三川国民学校(袋井市立三川小)の八人、周南国民学校(同山名小)の七人、久努西国民学校(同袋井北小)の五人などだ。ほとんどが太田川流域の弱い地盤に建つ学校で、校舎倒壊などによって力の弱い子供たちが被害に遭った。
『ふと気がついて見ると、自分のすぐ近くの正門の2メートルもある御影石の門柱が倒れ、その門柱の先端で頭を砕いた2年生が倒れていた。(中略)北側へまわってみると、上半身は外へ出ているが、下半身は廊下の桁の下敷きとなり、うめいている2年生がいた。すぐ瓦をとり、桁をもち上げようとしたが、数人ではとても上らなかった。(中略)結局、門柱での犠牲者を含めて8名が即死に近い状態で幼い命を失ったのである』
三川国民学校の二年担任だった金原馨さん(袋井市深見)の体験談=県中遠振興センター刊「東南海地震の記録」収録=だ。校舎の大半が倒壊し、重い門柱も倒れかかってきたのでは、子供たちは逃げ切れない。
周南国民学校の場合は不運も重なった。奉仕作業に向かっていた子供たちが、たまたま倒れかかってきた二階屋の下敷きになったのだ。
『本校の児童と原宿国民学校の疎開児童も幾班かに分かれて、なれない手に鍬を持ち、ざる箕をもって学校を出て、辻本菓子店の所まできた時、突如として一大轟音とともに台地が動いた。指揮者の先生は爆撃と直感したのか「伏せ!」と大声で命令した。児童は常々訓練されているので、ためらいもなく、道路に沿う家かげの溝に伏せた』
教師だった近藤好雄さん(袋井市上山梨)の証言=県中遠振興センター刊「東南海地震の記録」収録=によると、子供たちは米軍の爆撃と思い込んで地面に伏せ、そこへ二階屋は倒れてきた。
犠牲者七人の中には二人の疎開児童も含まれていた。戦火を避けて疎開したのに、その先で地震被害に遭うという不運もあった。当時、遠州地方には東京方面から多数の疎開児童が身を寄せていて、文集「大田区の学童集団疎開 平和のいしずえ」(平成六年発刊)などには東南海地震の体験談が載っている。
子供を亡くしたり、一緒に逃げた教師たちの思い出は心深く残り、教師生活を振り返った文集「紺のもんぺ」(小笠・掛川地域の元教師らによる出版)などにも『「先生助けて!」という声が聞こえた』などと地震関連の手記が収められている。
(2003.6.16掲載)