『救護に萬全の措置 縣に非常對策本部設置』『官民協力試煉に打克て 二百萬縣民へ知事諭告を發す』
昭和十九年(一九四四年)十二月九日付本紙の東南海地震関連記事の見出しだ。地震発生から二日目の朝刊。今なら被災状況が大きく取り上げられるが、戦時下で、報道は行政対応や被災した県民を鼓舞する内容が中心だ。ただ、その記事からは被災の実態も垣間見える。
『今回突然縣下を襲つた震災は西遠地方を中心に清水地方にも被害があつたが、幸い昼間のことであつた々め災害を最小限に止め得たのは不幸中の幸いであつた』(本紙、十二月九日付)
当時の今松治郎知事の談話からは、地震後の火災で大量の犠牲者を出した関東大震災(一九二三年)と東南海地震を比較している様子が分かる。
『逞しく天災乗り越え 隣保愛に不安も皆無』の見出しは十一日付。
記事は『周智郡南部の災害地山梨町、久努西村、宇刈村方面では八日早朝来悲涙を乗越えた罹災者は大自然の試煉と戦い抜き』と記し、犠牲者数などには触れていないが、被害の中心地は分かる。また『袋井町、森町間の静岡鉄道秋葉線電車は十日九時から平常通り』とあり、路面電車の復旧は早かったようだ。
『食糧復興に萬全策 増産も不安なし』(十二日付)『災害の穀倉地帯に 援農復興對策』(十五日付)と対策中心の記事が続くが、次第に被災民の姿も登場する。
『激震の中に職場死守 還らぬ四つの魂』(十六日付)の見出しが付いた記事は、浜松市内の工場で学徒動員の女子生徒ら四人が亡くなったことを取り上げている。工員らが「地震だ」「逃げろ」と避難したのに、『四人の女学生は「こんなことに驚いて職場を離れては前線将兵に申し訳がない、工場は私たち勤労学徒の戦場だ、機械、道具は私たちの武器だ」と逃げるどころか敢然として揺らぐ場内に踏みとどまり』と記している。責任感をたたえた内容だが、今から見れば、戦時下の悲劇でもある。
『お見舞ありがとう 震災地の学童からお友達へ』の見出しは二十五日付。救援物資のお礼に、磐田郡長野村(現磐田市)国民学校の五年生が沼津第二国民学校の児童に送った手紙が紹介されている。
(2003.7.7掲載)