昭和十九年(一九四四年)の東南海地震=マグニチュード(M)7・9=は、一部専門家の間では「長期的に“予知されていた”地震」としても知られる。
関東大震災(一九二三年、M7・9)の発生の危険性を事前に警告し、生前「地震博士」と呼ばれた地震予知の先駆者―。東京帝大教授だった今村明恒(あきつね)博士(一八七〇―一九四八年)が地震の前年の昭和十八年(一九四三年)、雑誌「地震」で、遠州灘沖を震源とした巨大地震に備えるべきだ、と指摘していたのだ。
『本州及び四国の太平洋に突き出した半島中、其の構造が主として第三紀層に属するものは、付近の洋底に発生した大規模の破壊地震に伴って急性的に南上がりの傾動をなし、平時に於ては概して慢性的に南下がりの傾動をなすことは能く知られた事実であるが、特に三浦半島が、大正十二年関東大地震に先立つ数年間に於いて異様な傾動を示したことは注意すべきである』
「遠州東南地塊の傾動に就いて」と題した、この論文は、今まさに東海地震の前兆を捕まえよう―と関係者が注視している“御前崎の変動”と同じ前兆現象を取り上げた内容だった。
地震の歴史を調べた今村教授は、東海から四国沖の太平洋の海底を震源に、巨大地震が百年から百五十年に一回の割合で繰り返している点に注目した。そして、関東大震災の調査結果から、ふだんは南方向に沈降している海岸部が地震前になると「異様な傾動を示す」と推測し、震源域に近いと思われる御前崎の動きに注意すべきだ、としたのだ。
この内容は、戦時下で一般に知られることはなく、戦後も埋もれた記録となっていたが、民間の津波災害史研究家の山下文男さん(79)=岩手県在住=が著した「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」(一九八九年、青磁社刊)などで近年、再び光が当てられた。
『今村は学士院に研究費を申請して陸地測量部に掛川付近の水準測量を依頼するとともに、田辺や串本に設置した南海地動観測用と同様の検潮儀を御前崎付近に設置すべく、御前崎を訪れ、場所探しにかかった』と同著にある。関東大震災後、まず南海地震の発生を危ぐし、観測体制を敷きつつあった今村博士は、御前崎にも同様の観測網を敷こうとしたわけだ。
東南海地震の発生を長期的に“予知”し、発生前の警報を出そうと、観測に入っていた人たちが六十年前にいたのだ。
(2003.8.4掲載)