昭和十九年(一九四四年)の東南海地震=マグニチュード(M)7・9=を“長期的に予知”した元東大教授の今村明恒博士(一八七〇―一九四八年)は、地震予知に挑み続け、波乱の人生を送った。
最初に世間から注目された関東大震災(一九二三年、M7・9)の論文は、予知というよりも啓発で、地震の周期から、今後五十年以内に関東で大地震の発生を覚悟しなければいけないという内容だった。明治三十八年(一九〇五年)の雑誌「太陽」に掲載され、恐ろしいのは火災で、十万から二十万人の犠牲を出す危険性がある、と書いた。特に震災軽減法として石油ランプの廃止を挙げていた。
結果的に、指摘は十八年後に現実となり、今村博士は「地震の神様」と呼ばれるまでになる。
だが、発表直後は「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京市大罹災の予言」(武者金吉著「地震なまず」より)と新聞に書き立てられ、師でもある大森房吉教授から「浮説」と批判された。今村博士は助教授という立場。津波の成因説でも大森教授と論争を繰り広げていて、苦悩が推察される。
地震予知に本格的に取り組んだ点で注目されるのは、南海道沖の地震への“今村戦略”だ。
『今村は関東大地震の直後から、次の大震は南海道沖を震源とするものではないかと予想していた』(山下文男著「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」より)。現代で言えば、プレート境界沿いに繰り返す大規模地震の周期性に注目した指摘で、紀伊半島から四国の地殻変動に注意すべきだとしている。
驚くのは、今村博士がこの考えを私財も投じて「南海地動観測網」として具現化したことだ。
『彼は帝国学士院より与えられた研究費と陸地測量部の助力をえて、紀伊半島南端の串本から大坂北部、さらに室戸半島など四国南東岸の水準測量を行うとともに、紀伊水道と紀淡海峡を挟む要所で地塊運動を追跡観測する計画を考え出した』(「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」より)
昭和三年(一九二八年)には、和歌浦(和歌山県)の人の別荘を仮事務所に「南海地動研究所」を開設し、串本や田辺・神子浜(和歌山県)に検潮所、室戸(高知県)や桃山(京都府)に地動観測所、と観測網を広げている。
戦前に南海地震(一九四六年、M8・0)の予知体制が敷かれようとしていた事実は科学史の中でも注目に値する。
(2003.8.12掲載)