南海道沖の地震を予測し、昭和三年(一九二八年)には私財も投じて「南海地動観測網」を敷設した元東大教授の今村明恒博士(一八七〇―一九四八年)は、昭和初期のこの時代、次々と大きな地震被害にも遭遇し、現場に立っている。
昭和五年(一九三〇年)は北伊豆地震=マグニチュード(M)7・3=。この時は、事前に騒ぎになった伊東の群発地震の時から見解を発表し、発災後はただちに現地入りしている。昭和八年(一九三三年)は三月に三陸地震津波=M8・1=。大津波のために三千人近い犠牲者を出した三陸海岸の現場で、悲惨な災害を繰り返さないためには高台へ移り住むしかない―と説き、街並みの集団移転が行われた。
南海道沖地震では巨大な津波も予想していた今村博士は、危機感を募らせた。昭和八年の雑誌「地震」十月号には、地震の長期的前兆が紀伊半島などで続いている観測結果を指摘した上で、『もし強いて楽観して之に備えることなきに於いては、万一の場合、かの関東大震災と三陸大津波とが併発するがごとき苦患に陥ることなきを保し難い』と警告している。
しかし、時局は第二次世界大戦へ向かい、国を挙げての地震予知、防災対策へとは結びつかなかった。
それでも、今村博士の地震予知への熱意は衰えず、昭和十八年(一九四三年)には「遠州東南地塊の傾動に就いて」を雑誌「地震」に発表して、東海沖地震への警報を発したわけだ。
実際、昭和十九年(一九四四年)三月には、軍が「本土決戦」に備える難しい状況下ながら、渥美半島の東大農学部の実験場に検潮儀を設置するのに成功し、掛川から御前崎にかけた水準測量も今村博士の要望通り行われ始めた。
『今村が依頼した水準測量は、緊迫した戦況下にもかかわらず陸地測量部によって実施されたが、やはり東南海地震前にはかなり著しい近くの上下変動があったことを示していた。しかし、今村がそれを知りえたのは戦後になってからであり、もし測量直後にそれを知ることができていたら、と今村を残念がらせた』と山下文男著「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」にはある。
(2003.8.18掲載)