東海沖の地震を警戒した元東京帝大教授の今村明恒博士(一八七〇―一九四八年)は、予知へ向けて、実際に御前崎付近の水準測量を要望し、測量作業の指示にもかかわっていたようだ。その事実が、陸軍技手だった越山敏郎氏(後の国土地理院測地部係長)の手記に書かれている。
『私は、昭和19年7月31日繰り上げ卒業で陸軍技手(通称、測量官)となった。(中略)研修を受けるため、ラバウルから潜水艦で帰国した同期の河野技手とともに、当時「水準測量の神様」といわれていた辻田技師の指導を受けた。(中略)多少の自信を得て、役所に帰り、整理していた11月中旬のある日「静岡へ一等水準測量に行ってくれ。細かいことは研究班の武藤博士に聞くように」と指示され、早速武藤博士の部屋に赴いた。部屋で武藤博士は、田舎の村長然とした東大理学部の今村明恒博士と懇談しているところだった。遠州灘付近に地震近しと予想した今村博士に、多分学士院が金を出し、それを陸地測量部で委託作業として実施するというものであった』
今村博士が指示して始まった、この測量が掛川市に差し掛かり、まさに測量中だった十二月七日午後、予測は的中して東南海地震=マグニチュード(M)7・9=が発生したのだ。
この時、『田舎の村長』と記された今村博士は、七十四歳。東京帝大は昭和六年(一九三一年)に既に定年退官し、私財を投入して東海、南海の巨大地震の予知に取り組んでいた最中だった。
『十二月七日の午後一時三十六分、東南海大地震(M7・9)が起こった。今村は即座に自分がかねて危惧していた大地震であると感じたが、問い合わせても、地震研究所すら被害状況がつかめないでいた。ただ、地震の規模は関東大震災と同様、あるいはやや大である、歴史的には規模は異なるが安政の東海大地震と酷似している、とのことであった』と山下文男著「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」(青磁社)にはある。
今村博士は非常に残念がった。結果的に、直前予知は間に合わず、注意喚起も十分できないままに地震を迎えたわけだ。
戦時下で現地踏査もままならず、昭和二十年(一九四五年)二月に執筆した「遠州沖大地震所感」(雑誌「地震」収録)には『彼の慚愧(ざんき)の念がにじみ出ている』(同著)。特に軍需工場でたくさんの犠牲者が出た点に注目し、『埋め立て地に非耐震的な工場が数多く存在していたのを気付かなかった』と震災予防の盲点になっていたことを反省している。
(2003.8.25掲載)