昭和十九年(一九四四年)十二月七日に東南海地震=マグニチュード(M)7・9=が発生し、その約一カ月後の二十年(一九四五年)一月十三日には犠牲者が二千人を超す三河地震=M6・8=も起こった。元東京帝大教授、今村明恒博士(一八七〇―一九四八年)の南海沖の地震に対する警戒心はますます高まった。
しかし、戦時下の状況は観測や対策を一層困難にしていた。
『南海地動研究所による観測は当時、ほとんど機能停止を余儀なくされていた。研究所の足元である和歌浦の観測所は傾斜計の設置してある山麓の横穴が陸軍に目をつけられ、弾薬庫にされた。各地の地震計は消耗品不足の上、時計などの盗難でたいてい記録不能になっていた』と山下文男著「地震予知の先駆者 今村明恒の生涯」(青磁社)にはある。今村博士は『ただ嘆息するばかりであった』(同著)。
同年八月に終戦を迎えたが、資金も尽きていた今村博士は観測網の再建に着手できなかった。
二十一年(一九四六年)十月には、学士院に南海沖地震に対する不安を記した論文を提出し、『高知県、徳島県、和歌山県の県庁や関係市町村の知人たちに対して注意を呼び掛ける手紙を書き送った』(同著)。しかし、その年の暮れに南海地震=M8・0=は起こってしまった。
『昭和二十一年十二月二十一日、友人の葬式から戻るや否や先生は服も着換えずいきなりラジオのスウィッチを入れた。午後三時のニュースは南海道地震の状況を伝え始めた。先生は立ったままニュースにじっと耳をすましていた。ニュースが終わると同時に、「ああ十八年の苦心水の泡となった!」と憮然として長嘆息されたのである』
これは地震発生時の今村博士の様子を記した武者金吉氏の「今村明恒先生素描」=同氏著「地震なまず」(東洋図書)収録=だ。武者氏は今村博士に師事した“弟子”の一人。さらに続けてこう書いている。
『先生が落胆したのは無理もない。南海道沖から発生する大地震に先き立つ数時間あるいは数日前に現れることが期待される前徴を捕らえようと、紀伊・室戸両半島の七カ所に設けてあった施設観測所は、資材欠乏のため観測中止を余儀なくされていた。その隙をねらったかのように大地震が起こったのである。次の機会は百年後でなければ来ない。その場にい合わせた筆者は先生を慰める言葉がなかった』 今村博士は、その二年後、七十八歳で亡くなっている。
東南海地震、南海地震は、日本で初めて本格的に科学者が地震予知に挑んだ地震でもあったのだ。
(2003.9.1掲載)