『“おっとう、おっかあ、なぜ死んだ。つらかったろうに”遺体との悲しい対面がくりかえされる―賀茂郡南伊豆町中木の災害現場では十日、前日の激しい雨がウソのようにあがり、真夏を思わせる太陽が照りつけるもとで、行方不明者の救出活動が懸命に続けられた。だが、被災者家族の願いもむなしく、冷たい遺体となって次々と発見され、地区中が深い悲しみに包まれた』
昭和四十九年(一九七四年)五月九日の伊豆半島沖地震=マグニチュード(M)6・9=から一日後の被災地、南伊豆町中木地区。修羅場と化した、その地区の様子を五月十一日付本紙朝刊が伝えている。
地震による山崩れで、十六軒の民家が土砂に埋まり、生き埋めになったのは二十七人。自衛隊や警察、消防団が千人規模の救助隊を編成して作業に当たったが、十日時点で『なお16人が不明』とある。時間の経過とともに被害の実態が明らかになり、中木地区の被害の深刻さが際立っていることも分かってくる。
この時点で政府も調査団を派遣し、『伊豆半島沖地震で直撃された賀茂郡南伊豆町の大きな被害を重視した政府の第一次調査団が十日、同町を訪れ、約四時間にわたって現地調査した』(本紙五月十一日付朝刊)とある。団長は後に首相を務めた故小渕恵三総理府副長官(当時)で、『惨状のすさまじさに驚きの色をかくせず』と記されている。
一方で、住民の証言から、地震時の災害状況もしだいにはっきりしてきている。
『父と二人で茶の間でテレビを見ていた時、突然グラグラと大きくゆれ、続いてゴーッという音がした。父が外へ飛び出した後、私も縁側から出ようとしたが、隣の家がバリバリと倒れかかって来たため、再び家の中へ戻ったとたん倒れた柱の下敷きになった。全く身動きがとれなくなり、必死にもがいたが、一向に自由がきかない。地鳴りは続くし、恐ろしさしか感じなかった。この間十―十五分だったと思う。もうだめだとあきらめかけたが幸いにも次の余震で体の向きが変わり、夢中ではい出した。土砂をまともにかぶらなかったのも運がよかったと思う。しかし、先に逃げた父はいまだに行方が分からない。こんなことになるなんて…』
紙面に掲載された山本美好さん(26)=当時=の談話は、その瞬間を生々しく再現している。
(2003.10.27掲載)