昭和四十九年(一九七四年)五月九日の伊豆半島沖地震=マグニチュード(M)6・9=の被害を象徴する中木地区(南伊豆町)の地滑り。この地震で起こった大規模な斜面崩壊の原因については、さまざまな分析が加えられている。
『城畑山に対しては(中略)従来から住民は堅固な岩山“ナメ”と称して崩壊の危険性を慮(おもんぱか)ることはなかった』
地質調査会社「応用地質」の「一九七四年伊豆半島沖地震による南伊豆町付近の被害調査報告」でも指摘されているように、堅い凝灰岩を住民らは「ナメ」と呼んで、裏山の城畑山は崩れないと見ていたようだ。その堅さは、住民らが横穴をくりぬいて倉庫にするほどだった。
ところが、地震の衝撃で、城畑山は一気に崩れた。
『城畑山の地質は第三紀層(地質年代)の凝灰岩で、地滑りをおこした東側上層部は粘土化が進んだ基盤となっている。そして、上下層の間には数メートルの滞水層があり、この層に地下水が通常より多く含まれている時に、たまさか近い距離で発生した地震の強い力が加わって山の山頂付近から垂直に亀裂が入って上層部が地滑りを起こした』
同じ調査報告にある静岡大の徳山明教授=当時、現富士常葉大学長=と岩橋徹教授=当時=の解釈だ。
住民が堅いと思っていた山は、風化によって斜面の表土が粘土化していたという分析。さらに、その下に水を含んだ滞水層があり、そこが滑り面となって、大量の表土が雪崩のように流れ落ちた、というのだ。
一方、中木地区の集落の特徴が被害を大きくしたとみる研究者もいた。
東大地震研究所の伯野元彦助教授=当時=は『城畑山を切り開いて宅地造成など人工の手が加えられたため、極限の状態でバランスを保っていた山が地震のショックで崩れて、自然の“あるべき姿”に復元した』(応用地質の報告書)としている。
中木地区は小さな湾に面した集落で、後ろは山が迫る。そのため、斜面は削ったりして、宅地用地が確保されたりしていた。斜面は崩れる寸前まで利用されていたという見方。風光明美な地形は潜在的に危険性をはらんでいたというのだ。
(2003.11.17掲載)