『澄み切った青い海と緑の山々に囲まれた平和郷で表面的には健康な町とみえながら、地形地質の暗い面を目の前にしてなんともやり切れない気持ちで一杯だ』
昭和四十九年(一九七四年)五月九日の伊豆半島沖地震=マグニチュード(M)6・9=から三日目。南伊豆町の被害の状況を嘆く本紙記者の談話が、記者座談会に掲載されている。絶景地を抱える伊豆半島は、災害には非常にもろい危険個所の連続だ。こんな構図がはっきりした地震でもあった。
そして、二度とこんな災害が起こらないように―と誰もが思ったが、期待は裏切られた。伊豆半島沖地震は“始まり”だったのだ。
『1930年のマグニチュード(M)7・0の北伊豆地震以降、伊豆天城山付近のM5・5(1934年)の地震を別とすれば、伊豆半島における地震活動はおおむね静穏に推移してきた。しかしながら、1974年の伊豆半島沖地震(M6・9)以降は、伊豆半島の地震情勢は一変し…』
伊豆半島沖地震から十二年後の昭和六十一年(一九八六年)、県がまとめた「伊豆半島北部地域の地震活動と災害」には「地震情勢は一変し」という表現で、事態の推移が載っている。
変化が起こったのは五十年(一九七五年)八月だった。伊豆半島中部で、微小地震が観測され始めた。一方、国土地理院の水準測量で、伊東市近くの冷川峠を中心に最大十五センチに達する広範囲にわたる隆起が観測された。そして、五十一年(一九七六年)八月十八日には河津地震=M5・4=が発生した。
微小地震はしばらくして静穏化していったが、今度は研究者が見守る中、五十三年(一九七八年)には、ついに多数の死傷者を出す伊豆大島近海地震=M7・0=が発生する。
伊豆半島の地震活動は南端を震源とした伊豆半島沖地震からスタートし、次第に北上していったのだ。
(次回からは「伊豆大島近海地震」)
(2004.3.8掲載)