奥山さん一家の避難した小学校では、なかなか統制が取れずにいた。
体育館に入れず、グラウンドに向かった人たちは、思い思いの場所に自分たちのスペースを構えた。「自主防災組織単位で集まって、行動してください」と町の職員が呼び掛けたが、現場を仕切る自主防の役員の姿も見えず、避難者名簿の作成も行われないまま。不在の人の安否確認もできない状況だった。
そのうち、車で避難してきてそのままグラウンドの一角に乗り入れ、車内で避難生活を決め込もうという人が現れ、数も何台かに増えた。また、体の弱いお年寄りや乳幼児、妊婦ら弱者は、職員が耐震性のある教室棟内へと誘導したが、しばらくすると一般の避難者も入り込むなど、ルール無視の行動が相次ぎ、職員は頭を抱えた。
一方、海辺の伊東さん一家の避難地は、自主防と学校、行政でつくる運営本部が機能して、秩序ある避難生活が滑り出した。
炊き出しなどに当たる係や、ごみ、水などの管理を行う係、防犯や治安を担当する係など、活動ごとに班を設け、避難者全員が役割を分担。「お互いに協力して、地震に備え、乗り切ろう」と役員が訴え、皆が力強くうなずいた。
警戒宣言が出てから最初の夜。テレビニュースは依然として「観測データは地震発生の恐れが高い状況を示している」と伝え、注意を呼び掛けていた。東海さん一家も自宅で、不安を抱えながら、静かに“そのとき”を待った。