全力プレーで駆け抜けた 118針けがとの闘い
日本ラグビー界をけん引してきたヤマハ発動機の村田亙(40)が今季限りで現役生活にピリオドを打った。不屈のラガーマンの半生と、次の目標に迫った。
―40歳までプレーできた理由を教えてください。
「負けず嫌いで、ラグビーが好きだったからかな。ヤマハ発動機に移籍した時、『日本一になる』と目標を設定したので、達成するまで引退できないと思っていた。夢はかなわなかったが、最後まで全力プレーを貫きました」
―余力を残しての引退でしたね。
「20歳から毎年、公式戦の先発出場を続けてたのに、最後の年だけスタメンがなかった。やはり潮時だった。移籍すれば、まだプレーできる自信はあるが、無理してやっても今後の人生でいい結果は出ないと心を決めました」
―現役生活はけがとの闘いでもありました。
「いつからか数え始めたのですが、度重なるけがで首から上だけで118針縫いました。医者から『もうタックルはしないでくれ』って言われたけど、試合が始まると闘争本能がね」
―3度のあごの骨折を乗り越えました。
「最初のあごの骨折は高校2年の時で、1カ月間は流動食だった。平成3年のW杯で同じ所を亀裂骨折し、シーズン終了後に手術しました。3度目は37歳の時。日本代表に復帰した直後で『このままじゃ終われない』と、手術から2日後には14階ある病院の階段を往復していました」
―リハビリの苦労はありませんでしたか。
「リハビリは好きなんです。普段の練習は試合に向けての調整なので自分を追い込めないが、リハビリなら1日をフルに使って体を鍛えることができる。今でも年に1回は発作が出るぜんそく持ちで、子供のころから自分を律するのが習慣になってましたね」
―1番心に残ってるのはどの試合ですか。
「東芝府中で平成8年度に全国初優勝を決めたゲームですね。開始わずか15秒でトライし、残り10分でも相手を突き放すトライを決めた。チームが目指す高速ラグビーを体現できた試合でした。自陣からもキックじゃなく、展開して攻めた。やっていて楽しかったし、観客も面白かったんじゃないかな」
―でも、その試合で負傷したそうですね。
「実は後半途中にろっ骨を骨折してたんです。息ができなくて、だんだん苦しくなったんですが、最後までプレーしました。試合後に検査したら、骨が肺に刺さる重傷で、さすがに翌週の日本選手権は出場できませんでした」
―理想のラグビーはどんなものですか。
「ぼくはいつもアドリブでやってきた。今はデータを重視し、チームの決め事をたくさんつくるのが主流だけど、個性を生かした集団にしたい。選手の判断に任せ、強い選手が自発的にチームプレーを発揮するようになるのが理想ですね」
―アドリブはどんな時に出るのですか。
「ぼくはわざとラインアウトのサインプレーを覚えなかった。来たのをさばく意識でいると、背中を通すバックパスやダイビングパスなど“見せるプレー”が出るんですよ。ラグビーは本来、体で自由に表現するものだと思います」
村田 亙(むらた・わたる) W杯に3大会連続出場した元日本代表スクラムハーフ。東芝府中(現東芝)の日本選手権3連覇に貢献した。日本人初のプロラグビー選手してフランスで2シーズンプレーした後、平成13年にヤマハ発動機へ移籍した。「ラグビーよりも家族が大切」と、休日は妻と4人の娘を連れて温泉へドライブに行く。172センチ、75キロ。福岡県出身。